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顕証寺の歴史(詳細)

室町時代の顕証寺

第一節創立及び沿革

八尾市久宝寺にある顕証寺は、久宝寺御坊とも称する一家衆寺院で、
蓮如上人が明応年間(1492~1500)に「西証寺」として建立した歴史をもち、
蓮如の実子・実順(第21子)に住持させた(『大谷本願寺通紀』・『真家史料集成』第8巻所収)。
その創立については文明年間(1469~1487)ないし同11年(1479)とする伝えもあるが(『顕証寺記録井由緒書』)(註1)、
この頃の位置や在郷町の集住形態については明らかではない。

久宝寺とは聖徳太子建立と伝える寺院の名に因むが、八尾市域では相当早くに都市的段賑をみせた地とみられる。
建永2年(1207)7月8日の『僧深慶某寺領注進状』(正木直彦氏所蔵文書)に「河内国末寺久宝寺若江郡狛郷」とみえ、
鎌倉時代に存在していたことが確認される。しかし、その寺跡については明らかではない。

その後、久宝寺には親鸞の有力門弟信販房法心が弘安3年(1280)、
親鸞の遺命により「渋川郡橘島久宝寺」に慈願寺を創立した (『慈願寺由緒書之覚』元文2年・17=17、寺蔵)。

なお、寺蔵の本願寺三世覚如著『拾遺古徳伝』(註2)、の写本奥書に
「河内国渋川郡久宝寺道場釈法心也応永一四年(一四O七)亥丁十一月三日執筆毛須生年三十主慈願寺」とあることが確認されており、
法心が先の法心と同一人物か問題を残す。
慈願寺が寺号を公称するのは文明7年(1475)以前で、 6代住職法円の代であったとみられている(寺蔵「親驚上人絵伝」裏書)。
河内国の布教の拠点となったのは、この慈願寺と光徳寺(柏原市)であった(註3)。

文明2年(1470)、蓮如が久宝寺の慈願寺で布教して以来、久宝寺・八尾(萱振)に一向宗がひろまっていた。(『大谷本願寺通記』)

細川晴元が政権を握った時代、証如と対立し、その武将木沢長政は本願寺と戦っているが、
『私心記』{註4)の天文3年(1534)11月13日条には、
『河内へ勢遺候。備中(下関頼感か)被立候。八尾カヤホリ焼候。』とあって、
西証寺がたてられたのに前後して創立された八尾萱振の恵光寺も焼失したと考えられる。

『証如上人日記』で『久宝寺」が出てくるのは天文5年(1536)11月7日の記述が早く、
それには次のように載る(註5)。

近郷衆井久宝寺あたりの衆ニ一戦方ニ可然仁候ハゾ、為番被来

候様にと申候へと、光徳寺、定専坊二人に近郷之儀申候。慈願

寺にハ久宝寺あたりの事申候。

顕証寺の歴史(詳細)

これは証如が「近郷衆井久宝寺あたりの衆」を頼みとしていることを一示すと同時に、
「久宝寺あたりの事」は顕証寺の補佐役である、有力坊主衆の慈願寺に申し付けている内容の一文である。

『証如上人日記』の天文7年(1538)3月27日条の「横沼、丈(竹)井、八尾、葉草、大平寺、パウシ六ケ所」や、
同8年3月26日条の「河内八里来(衆力)、葉革、八尾、大平寺、玉櫛、横沼、ハウジ、サワト是也」から、
久宝寺、八尾萱振に加えて、河内八里衆が広く形成されていたことが知られる。

なお、摂湾・河内・和泉・大和の4カ国にわたって描いた地図として最古の『御陣図』(註6)(明応2年・1493『福智院家文書』)があり、

八尾市域をみると、「教興寺、ヵ井堀(萱振か)、八尾、矢尾、勝軍寺ムカノ木、ウエ松、守尾」がみえる。

「矢尾」は現在の八尾市の中心に近く、「八尾」はその少し南で現在の八尾木か旧八尾座村に近いように思われ、注意される。

西国街道に近く、摂津国でも随一の政治的・軍事的要衝の地、芥川に近い富田(高槻市)が、天文元年(1532)12月に細川晴元配下の兵や、
晴元に加担する洛中法華宗などの攻撃によって焼き打ちきれ、同3年(1534)には晴元の部将木沢長政が河内国一向一揆勢と戦い、
八尾・萱振が焼亡したことを前記の日記は示す。
こうした細川氏を中心とした武家勢力の激しい対立の中で、本願寺は河内守護遊佐長教と結んだのであるが、
どうも久宝寺も焼亡するか、それに近い打撃を蒙っていたのではないかと思われる節がある(註7)。

久宝寺寺内町の制札が許されたのは、通説によれば天文10年(1541)のこととされているが(『証如上人日記』)、
それ以前の状況をうかがい知る資料として、同日記の天文5年(1536)10月20日条がある。

細川下知、就堺坊并富田坊再興之儀、只今到来也。文言難心得

道場ト候問、不審仕候へと申付候。

木津添状有。河内国ニケ所之坊ハ非細川分国候。小次郎并遊

佐方へ届候て、重勿(ママ)可到来之由候。廿一日ニ案口(内)

書て遣、書なをしてと申遺候。

この中の「河内国ニケ所之坊」とは後続の各条から「久宝寺」と「出口」のことであることがわかり、
前文は本願寺が堺坊と富田坊の再興を和泉と摂津の守護である細川氏、または幕府に願い出て許されたことを示し、
後文は細川晴元の書状にそえられた木沢長政の書状で、久宝寺、出口の分国ではなく、畠山氏のものであるため、
小次郎(畠山右衛門督)と守護代の遊佐氏に届けるようにとの、支配領国の相違を指摘し、その上で木沢氏に申し出るようにとの返事を受けとっている。

つづく

『八尾市文化財調査報告67
 顕証寺本堂調査研究報告書』
編集 歴史的景観保全研究会 代表 櫻井 俊雄

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